幸福に生きよ

「幸福に生きよ」
ケロQ製作のノベルゲーム、素晴らしき日々で引用されるウィトゲンシュタインの言葉である。ウィトゲンシュタインは「意味のある人生」こそ「幸福な人生」であるとした。
区別し、比較されることで世界には意味が生まれる。この世界はこの世界であり、この世界以外のものが存在しえない限りこの世界に意味は無い。
ではこの世界以外とは何か。それは主体だ。私が見出す世界というものについて論じるとき、人間は自分のどの部分が自分に従うか、人間はどこからが自分でどこまでが自分でないのかを考えなくてはならない。すなわち主体を孤立させる方法である。単純に脳ということはできない。なぜなら脳は今までと今、そしてこれから受ける刺激によってコントロールされているからである。
よってこの世界に主体は存在しない。つまり、人間は主体について考えることはできず、そこが「世界の限界」である。つまり主体によって私たちの感じるこの世界に意味がもたらされるのである。
では具体的に人間はどのように意味を与えることができるのか。それはこの世界に意味があると信じることである。だが無条件にこの人生を祝福できない人間も多いそういった人間のために物語を語る(或いは騙る)といった方法がある。
そういった人間はこの世界のありとあらゆる行動、刺激、価値観、概念に快、不快の感情しか抱けずに、それ以上の意味を見出せない。彼らは自分の生きている世界に対して関心を持てない、つまり退屈に苛まれることになるので別の世界を見出したり、或いはこの世界に自分の世界をかぶせて生きたりする。このために行われる行動が物語を語るということだ。
いわばVRとARである。
この二種類の現実逃避物語が僕達の生活を支えている。VR型現実逃避に耽溺した人間は一種の楽園への窓を得る。彼らは空想を続ける為に現実に最低限のコストを支払い続けていればそれでいい。
ヘンリー・ダーガーなどがいい例である。彼はたった一人で一九歳の時から六十年間、亡くなる半年前まで「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語」という破格の長さを持つ題名の世界一長いとされている小説を誰にも知られず執筆し続けた。幸か不幸か、またはそのどちらでもないのかもしれないが、ダーガーの死後彼の住んでいたアパートの大家がこの作品を発見し今では世界で最も有名なアウトサイダーアートとして知られている。
問題はAR型現実逃避が現実の見方そのものを変えてしまうことにある。ここでAR型現実逃避技術の具体例としてぱっと思いつくのは政治思想、宗教などだろうか?希望、親の人生、哲学、陰謀、出世、通貨、弁証法、愛、唯物史観精神疾患、薬物、あるいは認識そのものもAR型の現実との乖離と言えるかもしれない。
人間は現実そのものを認識できない。現実は必ず五感を通り、脳味噌を通り、無意識レベルの情報の取捨選択を行ったあと意識によって理解され、初めて僕達は存在を認識することが出来る。この過程で発生する必然的、偶発的、無意識的、意識的情報の欠落、或いは変質を便宜上ARと呼ぼう。このARに干渉するのが例えばヘッドマウントディスプレイであったり洗脳であったりプロパガンダであったり薬物であったりするわけである。
素晴らしき日々」の間宮卓司はこの世界はもうすぐ終わり、自分はその崩壊から多くの人間を救うために生きているという物語を騙った。不幸が立て続けに起き、自分たちが明日も確実に存在するとは限らないといった実感を得て不安になった大衆は新しい世界で幸福に生きるという物語を信じた。
ARを人間が恣意的に操作してその人にとって心地いい世界、つまりは心地いい視界を手に入れること自体には全く問題がないのだが、ここでARの外の認識の世界、つまり一般的な意味での客観的な世界は何一つ変わっていないのだ。こうして自分にとって都合のいい認識をつくり上げ続けていると起きる問題とは社会という人間の総体において共有された認識、社会に所属する人間の認識の平均的あるいは集合的存在である一般常識と激しく乖離してしまうということだ。
そして乖離をおこした人間は狂人と呼ばれることになる。今更狂人と社会の関係について説明する言葉は不要だろう。狂人は社会に適応できず、すると当然社会から受け取れるリソースも少なくなる。(この場合金、社会的地位、愛など)すると不快を感じる狂人は自分の境遇に苦しむか、あるいは新たな、またはさらに深い物語を信仰してさらにARを調整する。
生きる意味を見出す為に自分、あるいは他人が作った教義を信じるだけが唯一の方法ではない。もう一つの代表的な方法は愛である。つまり自分の生きる意味を他人に見出すのだ。
何も信じられない人間が信じられるものとして名高いこの愛も、しかし狂人へと続く道であり「さよならを教えて」の人見広介の如く結局は自分の作った世界が世界を塗り替えてしまう。だからこそ認識と現実の食い違いを生んでも問題にならない為にVR型の現実逃避をARで行う必要がある。それは架空の人間を想像し、それを愛すればいいのだ。
架空の人間だから認識と現実(存在する作品など)との食い違いが起きても大して問題にはならないし、その人間を愛する為には自分が存在しなくてはならない為生きる意味を見出せる。