休日じゃない休日

レキソタン5錠飲んだのに全く意識に影響を及ぼさない。もう耐性ついちゃったのかな。せっかくの休日なんだから本当は一日中ラリって布団に横になっていたい。僕はなにもしたくないというのは本当は嘘で、なにも出来ないというのが正しい。なにもしたくないと呟くときの気持ちは嘘じゃないんだけど結局なにも出来ないのだから最初っからなにもしない方が楽だというのが正確。でも本当はしたい事が沢山あって、バイトもしなくちゃいけないし、勉強もしないといけないのに僕の精神の心臓に近い部分にある怠惰がそれを許さない。結果できあがるのが無気力に縛られて不安と焦燥に炙られるだけの生き地獄のような精神で、せめてここから逃れる為に向精神薬が欲しいんだけど清く正しい合法ジャンキーである僕には治療用の分しか薬をもっていないのでいつも薬の事を考えている。僕がTwitter向精神薬の事を呟くのはこうした理由によるものだ。もう苦しいのは嫌だ。疲れるのは嫌だ。どうにかしてこの脳味噌とかいう今世紀最大の拷問器具から逃れる方法を探している。こんな文章誰に届くわけでもないただの自己満足だ。全然休日なのに休まらない。一生煙草を吸い続けて、モンスターエナジーを飲み続けて、金銭的にもかなり苦しいし、ゲロを吐く事すらよくあるのに精神科医はいつもと同じ薬を出すだけでなんの役にも立ちゃしない。わかってますわかってますこんなのただの甘えだって。でも客観的にどうであろうと僕が苦しい事には変わりないんですよ。本当はアニメの話とか音楽の話とかしたいのにもうそれに耽溺する能力すら壊死してしまって、ただの義務感で追っているにすぎない。「自意識を肥大させるだけの衝動音楽にも反応できない止まったままの無気力な心。絶望もなんも見えてこない。希望は煙草の煙みたい」全部偽物で一つもリアルが見えてこない。どうやったってお終いなんだ。もう一生俺を心の底から楽しませる物となんて出会えないんだ。

なんだかこう、自分の顔がカメラで写しだされていると、あまりの醜さに眩暈がしてくるね?リモート授業でウェブカメラを使わなきゃいけない時、僕はわざとカメラを上に向けて顔が見切れるようにします。こっそりツイッターを見るためというのもあるが一番の理由は僕の顔は下半分が特に醜いからです。自分の顔が醜いというのは自分の人生を一種の喜劇に変えてしまいます。何をやっても「不細工が~してる」になるからです。不細工が頑張ってる。不細工が人と話してる。不細工が飯食ってる。不細工が風呂に入る。不細工が腐ってる。不細工が死んでる。
 なんだか全てが馬鹿らしくなりませんか。なんにもやりたくないのです。ああ、また僕は自分の怠惰を何かのせいにしてしまった。本当はイケメンだろうがなにもしたくないのです。僕は本当に生活というものに心底嫌気がさしていて、風呂に入るのも食事をするのも面倒くさい。暮らしは何かの修行みたい。でも顔が良ければもう少し主人公面して人生を気ばれたのになあという思いはどこかにずっとあって、それは卵が先か鶏が先かみたいな話ではあるんだけども、長年の腐った生活がこんな腑抜けた、のぺっとした、釣り上げられた魚みたいな顔を作ったのか、そんな顔だからこんな間の抜けた人生しか選びたくなかったのか、そこのところが自分でも上手く掴めていない。
 ああ、恥ずかしいなあ。近頃はマスクをしないと遠出も出来ないくらいになっちゃいました。コロナが終わったらどうするんだろう。特に精神科にかかる時は絶対にマスクをしなければという気持ちに駆られるんですよね。不細工が心を病んでる。
 そういえば精神科医に薬の話をするとうんざりされるようになりました。「薬を処方したいという気持ちにさせてください」とまで言われた。「自分は異常なんだって叫んでるようにしか見えない」とも。前者に関しては本当に申し訳ない限りで、でも薬で頭をブチ飛ばさないと生きていけないんですよと言いたかった。後者に関しては不細工が異常者ぶってるのは最高に笑える見世物だと思うのでこれからも胸を張って異常者面していきたい。嘘です。本当は誰にも笑われたくない。普通にしてればいいだけなのになぜそれが出来ないんだろう。なぜ課題をやらず、出席届を出すのを忘れて、貧乏ゆすりを止めることが出来ないのかわからない。こりゃあいかんよ。薬漬けで、怠惰で、不注意で、多動で、ろくでもないよ。
僕が女性にもてていたら人間失格になるところだった。不細工でよかった。それにしても不細工をテーマに良く千文字もかけたなあ。不細工が文を書いてる。

インターネットさえなければ

ネットに無限に溢れるポップミュージックの一つをループさせながらこれを書いています。僕は読書より音楽とツイッターが好きなのです。困ったことです。小学5年生の時に貰ったipod touchは僕の精神と人生を根底から変えてしまった。僕は物心つく前から本が本当に好きでした。小学校に入る前から「マジックツリーハウス」を読んでいたし、3年生の夏休みには「ハリーポッター」を読破していました。授業中だろうが何だろうが本を読んでいたし、給食中も先生にばれないように本を読んでいたし、夜も眠りに落ちる寸前まで本を読んでいました。一種の依存癖です。自分には本しかないと思っていたし、教科書も読めば内容を理解できたので周りからは頭のいい子だと勘違いもされていた。それを変えてしまったのがインターネットです。頭がいいと勘違いされていたので池袋にある某中学受験対策スパルタ塾に通わされており、不眠症と慢性の腹痛を抱える程精神のバランスが崩れていたのも原因だったでしょう。僕は当時ipodにプリインストールされていたyoutubeにドはまりしました。それまで読んでいた本なんてそっちのけでアニメのMADを延々ループ再生し続ける毎日。不意に訪れる腹痛も、小学生には長すぎる夜も、ipodさえあれば平気でした。ADHDでタスク管理が出来ずに塾の先生に怒られるわ、受験が近づくにつれ両親のヒステリーも激化するわで僕はますますインターネットにのめり込んでしまい、それは中学受験が終わってからも治りませんでした。完全に依存対象が本からインターネットへ。その結果なにが出来上がるのかと言えばなにも為さずなにも積み上げないただ光る板を擦り続ける化け物です。もう教科書を読んでもなにも頭に入らないし、勉強しようとすると中学受験の時の思い出がフラッシュバックしてなにも手につかない。成績が良かった頃のプライドが邪魔をし妥協も出来ず、結局一浪して三流の私大に落ち着きました。今も課題もせずにこうしてインターネットをしています。人間は楽な方へと流れていくものです。きっと中学受験が無くてもいつかインターネットに触れた時点でこうなっていたでしょう。インターネットには読書よりも手軽に気持ちよくなれるものがそこかしこに溢れています。もし僕がインターネットの無い時代に生まれていたら。もし読書に依存したままでこの年まで生きていたら。もう少しましな人生があったのではないかといつも考えてしまいます。僕だって読書が好きだった頃の自分の方が好きだった。

幸福に生きよ

「幸福に生きよ」
ケロQ製作のノベルゲーム、素晴らしき日々で引用されるウィトゲンシュタインの言葉である。ウィトゲンシュタインは「意味のある人生」こそ「幸福な人生」であるとした。
区別し、比較されることで世界には意味が生まれる。この世界はこの世界であり、この世界以外のものが存在しえない限りこの世界に意味は無い。
ではこの世界以外とは何か。それは主体だ。私が見出す世界というものについて論じるとき、人間は自分のどの部分が自分に従うか、人間はどこからが自分でどこまでが自分でないのかを考えなくてはならない。すなわち主体を孤立させる方法である。単純に脳ということはできない。なぜなら脳は今までと今、そしてこれから受ける刺激によってコントロールされているからである。
よってこの世界に主体は存在しない。つまり、人間は主体について考えることはできず、そこが「世界の限界」である。つまり主体によって私たちの感じるこの世界に意味がもたらされるのである。
では具体的に人間はどのように意味を与えることができるのか。それはこの世界に意味があると信じることである。だが無条件にこの人生を祝福できない人間も多いそういった人間のために物語を語る(或いは騙る)といった方法がある。
そういった人間はこの世界のありとあらゆる行動、刺激、価値観、概念に快、不快の感情しか抱けずに、それ以上の意味を見出せない。彼らは自分の生きている世界に対して関心を持てない、つまり退屈に苛まれることになるので別の世界を見出したり、或いはこの世界に自分の世界をかぶせて生きたりする。このために行われる行動が物語を語るということだ。
いわばVRとARである。
この二種類の現実逃避物語が僕達の生活を支えている。VR型現実逃避に耽溺した人間は一種の楽園への窓を得る。彼らは空想を続ける為に現実に最低限のコストを支払い続けていればそれでいい。
ヘンリー・ダーガーなどがいい例である。彼はたった一人で一九歳の時から六十年間、亡くなる半年前まで「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語」という破格の長さを持つ題名の世界一長いとされている小説を誰にも知られず執筆し続けた。幸か不幸か、またはそのどちらでもないのかもしれないが、ダーガーの死後彼の住んでいたアパートの大家がこの作品を発見し今では世界で最も有名なアウトサイダーアートとして知られている。
問題はAR型現実逃避が現実の見方そのものを変えてしまうことにある。ここでAR型現実逃避技術の具体例としてぱっと思いつくのは政治思想、宗教などだろうか?希望、親の人生、哲学、陰謀、出世、通貨、弁証法、愛、唯物史観精神疾患、薬物、あるいは認識そのものもAR型の現実との乖離と言えるかもしれない。
人間は現実そのものを認識できない。現実は必ず五感を通り、脳味噌を通り、無意識レベルの情報の取捨選択を行ったあと意識によって理解され、初めて僕達は存在を認識することが出来る。この過程で発生する必然的、偶発的、無意識的、意識的情報の欠落、或いは変質を便宜上ARと呼ぼう。このARに干渉するのが例えばヘッドマウントディスプレイであったり洗脳であったりプロパガンダであったり薬物であったりするわけである。
素晴らしき日々」の間宮卓司はこの世界はもうすぐ終わり、自分はその崩壊から多くの人間を救うために生きているという物語を騙った。不幸が立て続けに起き、自分たちが明日も確実に存在するとは限らないといった実感を得て不安になった大衆は新しい世界で幸福に生きるという物語を信じた。
ARを人間が恣意的に操作してその人にとって心地いい世界、つまりは心地いい視界を手に入れること自体には全く問題がないのだが、ここでARの外の認識の世界、つまり一般的な意味での客観的な世界は何一つ変わっていないのだ。こうして自分にとって都合のいい認識をつくり上げ続けていると起きる問題とは社会という人間の総体において共有された認識、社会に所属する人間の認識の平均的あるいは集合的存在である一般常識と激しく乖離してしまうということだ。
そして乖離をおこした人間は狂人と呼ばれることになる。今更狂人と社会の関係について説明する言葉は不要だろう。狂人は社会に適応できず、すると当然社会から受け取れるリソースも少なくなる。(この場合金、社会的地位、愛など)すると不快を感じる狂人は自分の境遇に苦しむか、あるいは新たな、またはさらに深い物語を信仰してさらにARを調整する。
生きる意味を見出す為に自分、あるいは他人が作った教義を信じるだけが唯一の方法ではない。もう一つの代表的な方法は愛である。つまり自分の生きる意味を他人に見出すのだ。
何も信じられない人間が信じられるものとして名高いこの愛も、しかし狂人へと続く道であり「さよならを教えて」の人見広介の如く結局は自分の作った世界が世界を塗り替えてしまう。だからこそ認識と現実の食い違いを生んでも問題にならない為にVR型の現実逃避をARで行う必要がある。それは架空の人間を想像し、それを愛すればいいのだ。
架空の人間だから認識と現実(存在する作品など)との食い違いが起きても大して問題にはならないし、その人間を愛する為には自分が存在しなくてはならない為生きる意味を見出せる。

今日の天気

素晴らしい静寂です!今日の天気は実に5年半ぶりの「ひらいた瞳孔」!「ひらいた瞳孔」です!これがこの感覚が愛おしいから苛立ちが募り、"透明少女もこうすれば造れる"便器に浮かぶ溶けかけの糖衣

猫の瞳孔 人間試験

少女を 嘔吐を 救済を

どうか私の脳味噌様あの光をもう一度、もう何度でも見せて下さい

郷愁薬は塩素の匂い 

信仰薬は 灰

解離

人間が創作する空想世界それだけでは寂しいから人は空想世界を人にみせたり見た空想世界から新たな空想世界をつくるその人の連なりの架け橋であり最外殻にあるのが大きな瞳 不思議な髪の色 それらはコード コードの理解と創作への組み込みが俺、俺の世界、他人、他人の世界を結ぶ架け橋になるのだ孤独であるがゆえにあつまる素晴らしきオタク文化


客が少ないほど嬉しい客は極論最高の作りてに自分だけの為に作って欲しいのだ。そうして今回の作品の感想を二人きりで語り合い次の作品の事を聞いたりして過ごして、ある日恐る恐る自分の作った作品を見せて、作り手がにっこり笑って「良いね」と誉めて欲しいのだろう。
ポップなロックの軽いギターがやたら響いて
サボるために学校通ってるんだろうな不登校の孤独な
横の壁に持たれたいから端の席に行ってそこはドアに近くて寒いから中央の席に移って乗らなきゃ行けない電車に乗らず降りなきゃ行けない駅で降りずにこんなことを続けて辿り着くのは運転席の隣の席か最後尾の景色が流れていく無人の運転車両の窓を眺めているのかなんか僕の「生きる」はいつもこんなんだ。 
なんだか色々な事を思うのでやっぱり逸脱から生まれる物もある


世界が遠い
現実味がない
実感がわかない
自分に対して実感が持てない

大体今まで言葉の羅列が流れてくる環境にあってある言葉はその裏にある文脈から切り取られて流れてくるからその流れてくる短文が属する文脈の意味を見出さずに短文に意味を見いだすことによる誤解を恐れていたのだ!気に入ったツイートがあるとまず裏にある文脈を探り、そのツイートに意味を見いだすという状況に慣れすぎた結果読んでいるけど意味を見出さないという癖がつき読むと意味を見いだすのスパンが開いたことにより普通の読書で読んでいるが意味を見いだすのに時間がかかるようになったのだ!

最近

退屈で退屈でこの空白を埋めようと不安と鬱が波の様に押しよせてくる。
何をやっても退屈で何かをする気力が無くて、ただ無意識だけが虫をもてあそぶ子供の様に僕の脳内を書き乱す。「天使にラブソングを」を観て信仰の歓びに打ち震えても、「インディペンデンスデイ」を見て人類の団結に胸を熱くしても結局エンドロールの後に押し寄せるのは不安、退屈、そして鬱。「希望は煙草の煙みたい」海猫沢めろんの「左巻キ式ラストリゾート」のセリフだ。僕はあの小説の最後のモノローグを携帯で写真をとって、つらい時にいつでも読めるように大切に隠し持っていた。電子書籍が無かったから。
僕は本当にあのモノローグが大好きで、自分の聖典のように扱っているんだけどやっぱり僕は「次のドア」を探し続けていかなければいけない。そうするしか僕の生きる道はないんだけど、だけどもう疲れたよ。カフェイン、ニコチン、エフェドリン。ありとあらゆる合法的に入手できる薬物で無理やり次のドアをこじ開けているけれど、どこまでもどこまでも現実が僕を追ってくる。助けて、本当にどうしたらいいかわからない。どこまで逃げれば逃げ切れるんだろう。別の世界にいけるんだろう。もうこの纏わりつく現実を振り払うためなら禁断の果実にも手を染めてしまうかもしれない。それが僕は本当に怖い。怖い。怖い。