酩酊

酔っている。睡眠薬つまみに呑んだんだから当然だ。こうやって自分の中でてんやわんやの大騒ぎがなくなった。文章にしようとしたからだ。それでも脳の機能停止を死として定義しているけど酒も睡眠薬も脳の機能抑制だつまり総称としての鬱を停止、殺すために酒や薬をたらふく食っちまうことにしてるんだな。まあ楽しいからいいや。寂しいよ 酔いが抜けたあとはまるで友達と別れたあとみたいなんだ。君たちは友達だ。
もういいだろいっちょかまそう。不安と焦燥の責め苦の向こう側にあるのは退屈だと予感しているし向精神薬で向こう側を覗いたときすでにそれを悟っていた。語ることに意味はあるのかという疑問でも解決を試みるか。いやーわからんねさっぱり難しくてわかんないけど語ることにいみはあるのかという疑問を抱いたのはとても重要な選択だったことは確か。さて、言葉に意味はあるのかという禁断の疑問で言葉を壊した僕は壊れた言葉で一体なにを騙るのかな。ここで騙るという文字を選んだのは語ることに意味がないと言ってしまったことになる。邪悪な文字だ騙るって。もともと狂ってるんだとっくにぼくは壊れていってしまった言葉を取り出し世界に叩く


視界がぼんやりしていると物を反射ではなく思考で理解しようとする。ここに文学の入る余地がある透明な世界は文学の限界だ言葉が存在しないから透明なんだ。

3月6日2

狂いとは多くの人が信じている現実とその人が信じている現実に違いが生じていて、それが周囲の定める閾値を越えていると周りに思われた状態だと言える。しかし言うまでもないことながら多くの人間が信じている現実が客観的な真実とは言えない。現実、感覚、認識の間にはある情報の変質を完全に取り払う事など出来ない。色眼鏡、錯覚、バイアス、様々な要因で人間は変質した情報を見ている。もしここでさらに一般的な狂気の定義、つまり現実を歪めて観ているという定義をこの世界に適応させてみるとどうだろう。この世界に存在する人間の中で狂っていないものは存在しない。

この前発達障害と診断された。不注意優勢のADHDらしい。自分が発達障害なのではないかという疑いは常に持っていたのでたいして驚きはしなかった。まあそうでなければ自分から精神科の扉を叩いたりはしない。どうやら処理速度が遅いらしいので普通の人よりもゆっくりと動くように意識することでミスを減らせるのではないかと思いついた。効果はわからない。大学が休みの今、脳の処理能力を他人に見せる機会は週二回のバイトの日だけだからだ。そしてこの対処法を思いついたあと、バイトにはまだ出ていない。一生出たくない。辞めたい。
「聖書」「ツァラトゥストラはかく語りき」「言葉と物」「論理哲学論考」「銃・病原菌・鉄」「フェルマーの最終定理」「指輪物語」「ライ麦畑で捕まえて」「クトゥルフの呼び声」「罪と罰」「非現実の王国で」「吾輩は猫である」「在りし日の歌」「人間失格」「ドグラ・マグラ」「十角館の殺人」「生首に聞いてみろ」「46番目の密室」「冷たい校舎の時は止まる」「クビキリサイクル」「ブギーポップは笑わない」「緋弾のアリア」「イリヤの空 UFOの夏」「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん

3月10日

日記という題名なのに毎日書いていない。文章を纏める能力をつける為に始めたのだから毎日やらないといけないのかもしれないが僕は本当に自分に甘いのでどうせ毎日書こうと思っていても書かないだろう。それでも何か文章を書いているときには不安も落ち着いている気がする。恐らく思考を言葉にするために脳のRAMを食うからだろう。退屈な時はこうはいかない。退屈とは人生だ。人生が退屈なのではない。人間はいつだって霧のようにとらえどころのない不安と焦燥に遠火で焼かれ続けて、それでも体にまとわりついた重い無気力によってどこにも行けずにただただ苦しみ続けて生きていくしかないのではないのだろうか。そうではないというのなら、馬鹿にするのなら本当にここから逃れる術を教えて欲しい。繊細しぐさをしているんじゃないんです。いや、僕が自分の機嫌も取れない馬鹿なのは確かなので馬鹿にされるのは仕方がないことですが、やめてください。世の中には宗教だの思想だのでこの世界を物語化し、自分の理解できるレベルまで矮小化して俯瞰することで自分の人生に外側から意味を見出す人間がいる。それは当然のように認知の歪みを生みありとあらゆる大騒ぎの発端となった訳ですが当人はその日ベッドから這い出す意味を、自分の仕事をする意味を、今日も明日も生き抜く意味が生まれるのでとても幸せそう。まあ中には自分の信じる物語に囚われてしまい苦しんでいる人もいるだろうが。でも僕はそんなことはしたくなくて、この世界をこの人生をありのままで愛したくて、そんな毎日を生きることこそ「素晴らしき日々」なんだろうなと思う。だから美しいものを、僕が愛せる価値を見出せるものを見つけようと思っていて、偶に僕は愛せる「瞬間」というものに出会う。それは文字通り瞬きと瞬きの間程の長さの事もあれば瞬間というにはあまりに長い時もある。例えるならそれは世界が透き通るような感覚で、まるで視界のすべてにピントがあったようになる。瞳孔が開いているのか全てが輝いていて、頭の中には涼しい風が吹き通る。それは美しいものに出会ったときにもなんてことない普通の日常のなかで不意にやってくることもあってそんな時に僕は生きててよかったと思う。

3月6日

病院に行った。泌尿器科だ。僕は性分化疾患で(生まれた時性別の判断がつかないと半陰陽と言われるらしい)基本的に異常がないか確認する通院を年に1回行っている。自然に射精が出来ない旨伝えたが特に解決策は提示されず先生の口ぶりからするに定期的な通院も恐らく大学卒業までだろう。
特に希望が無くただ自分が健常ではないということを意識するための通院は気が重くなる。精神科はまだ症状を和らげる薬を貰えるから気が楽なのだが。
薬を飲み忘れた頭で機嫌が悪いまま歩いていたらコートを着ていると少し暑いことに気が付いた。少し首筋が焼ける感触がする。そうだ、もう春なんだ。月の変わり目なんて給料が貰える程度の認識でしかなくなっていた。
Number girlの「透明少女」という曲には「気づいたら 俺は 何となく 夏だった」という歌詞がある。きっと俺が、気づいたら何となく夏なのだ。
目が醒めたように気分が良くなる。人生にわかりやすい解決がなくても、物語が無くても、意味が無くても、こんな一瞬の透き通る世界のためにきっと俺は生きていく。

3月5日

今日は1日中何もしなかった。
いや、何もしなかったというのは語弊がある。実際にはゲームをしてCドライブに入っているエロゲをDドライブに移そうと必死になっていた。結局殆どのゲームは移動というより1度アンインストールしてもう1度Dドライブに入れなおすことになった。セーブデータは消えるしアンインストール出来ているのかも怪しくてもうなんというか散々だった。本を読もうと思っていたのに1ページも読んでいない。
なんだか常に焦燥と不安が頭の中に居座ってゴリゴリRAMを食いまくる。読書という受動的で刺激の量が少ない娯楽では頭の中の物を追い出せない。外の事を忘れるにはいい娯楽だが。
結局何かに言及することが怖いんだと思う。だから思考が纏まらない。何かについて何かと語るということは何かについて何か以外だと語らないということを意味する。そういう意味では確かに書くということは殺すということだ。
前述の不安と焦燥のおかげで何か一つの事に集中するということが出来なくなっている。こういう悩みを抱えた僕のような人間にとって何か別の事を忙しなくしながらも流し見できるジャンキーな娯楽というのは周りが馬鹿にできるような下らないものでは断じてなくて、観る人の人生観を変えるような壮大な名作よりもツイッターを見ながらぼうっと見られる作品が人を救うことだって確実にある。
今季のアニメで僕にとってそのような意味を持つのは「痛いのは嫌なので、防御力に極振りしようと思います」というアニメだ。この作品はタイトルを読めばわかる通り痛みを嫌がって防御力に極振りした美少女がレアスキルやレアアイテムを偶然や機転によって手に入れて楽しくゲームの世界を冒険する話だ。
美少女が主人公ならノンストレスな展開も微笑ましく観ることが出来るのはなぜなんだろう。思うにこれが「かわいい」の力だ。かっこいいという感情は汚れやすい。綺麗なものを許せない心が嗜虐心を煽りかっこいいを否定したくなる。かわいいは純粋だ。それは生理的にも文化的にも守られた感情でたとえどこか知らない場所で汚されようとかわいいことに違いはない。今の時代男も女もその沸き立つような愛情に耽溺できる。いい時代だ。
僕はきっと明日もジャンクフードのようにむさぼってアニメを愛するだろう。しかし僕のような臆病者にはそれが真理の書よりも救いになることがあるのだ。